人生青色の青峰です。
僕のベースにあるのは
http://lifeisblue.net/bluelife-rules/
という考え方なのですが
読者の方より
最初は相手を疑って見てしまい
「この人、私を騙そうとしているのでは?」
「信じていたのに、裏切られた。やっぱり人は信用したくない。傷つくのが怖いから」
守りに入ってしまう人、
たくさんいますし、
昔から「正直者が馬鹿を見る」といわれますし。
青峰さんは自分のルールがあると言われていますが
「人間不信」になったことはありませんか?
という質問を頂き
良い機会だと思いましたので
コレについての僕の見解を書きたいと思います。
前提として
文章に出てくる見解は僕自身の考えであり
これによって
人を非難をするつもりも否定するつもりも一切ありません。
Contents
信じるのは相手ではなく自分の眼
青色ルールで言うと
上手く行けば他人のお陰
上手くいかなかったら自分のせい
この理論で行けば
上手く行けば相手のお陰で
裏切られたら自分のせい
なのですが
僕が信じているのは自分の眼であり
相手がどうというのはあまり関係がありません。
人によってはこれを
「人を信じていない」
「自分しか信じていない」
という風に言うのですが
僕自身の表現としては違います。
その人の言動に対して信じる
僕がいつも見ているのは
その人の言動です。
信じる信じないで話をすると
100%か0%かみたいに考えている人が多いですが
実際はそうではなくて
80%とか30%とか出てくる事もありますよね。
しかも、時や場合によっても
この数字は変わっていきます。
例えば、
この人は言ったことの80%くらいはやるよね。
とか、
この人のいう事は殆ど適当だとか
この人の
歴史に関する知識はとても正確だけど
ITに関してはニュースそのままだな
とか。
僕の場合は
「この人ならこれくらいの事は出来ると思う」
という形で人を視て信用したりしますので
それで出来れば
自分の眼は正しかった
証明してくれてありがとう。
ですし
それで出来なければ
まだまだ自分の眼は足りないな
と考えます。
裏切られたならそれは自分の見る眼が無かったということ
人を視れるかどうかは
どれだけ人を視てきたかどうかで決まると思います。
だから「裏切られた」という事が起こったのだとしたら
それは自分の相手を視る力が足りなかった
もしくは視なかった
という事
部下を信じて仕事を任せたけれども出来なかったら
部下は上司の信頼を裏切った事になりますが
これは上司が部下の力量を視誤った
となるのと同じだと考えています。
そして、相手を信用すると決めた部分では
これで失敗した(裏切られた)なら仕方ない。
と思いますね。
友人にお金を貸すならあげるつもりで
という感覚です。
もう少し言えば
僕は人を見た時
「この人は人を騙す事になるな」
という事を感じたら
「この人は人を騙す」
と見た眼を信じます。
ただ、これを伝えれば他の人に
先入観を与えてしまうので
自分としての評価は必要がない限り言わないです。
相手に対して考える事をやめると見間違える
変わらない人間なんて居ないわけで
自分も相手も刻一刻と変わっていきます。
だから、一度信じる事を視たとしても
相手に対して考える事はやめません。
それは馬鹿をみないため。
「正直者が馬鹿をみる」
と言いますが
何も考えずに全てを正直に話せば
人を利用しよう
と考えている相手にあたった場合
当然、利用される訳です。
ただ、正直者だから馬鹿を見るのではなく
何も考えていないから馬鹿を見る
のではないかなと。
嘘をつくということは
少なくても少しは考えている訳なので。
人見知りの為、人間不信以前に
元々、人見知りで
「この人は僕をどんな風に見ているのだろう」
という事が僕の中心でした。
そして、相手に対して常に思っていたことが
「なぜ、この人はこんな言動をするんだろう」
という事で、それが分からない間は
ずっと言葉を発せませんでした。
どんな人か分からないから
下手なことを言って嫌われたくない。
という気持ちが強かったです。
なので、相手の事は視ていました。
相手の一言一言、相手の一つの仕草や動きを
話している間ずっとですね。
「この人に対してこういう事を言って
不機嫌にさせないだろうか?」
とかを考えながら。
ただ、人見知りで良いとは思っていなくて
自分が相手と話せない事は
どうにか治したくて
でも相手を傷つけたりするのは嫌で
を繰り返すうちに
「相手をちゃんと視れれば話せるんじゃないか?」
という結論に至りました。
そして、視て視て視て
自分の中で人を視るという事が出来るようになって
話せるようになってきた経緯があり
ずっと、人に対して興味がありつづけたので
人間不信という事は無かったですね。
性善説と性悪説のどちらだと思いますか
という質問があれば
基本的に人は性善だと思っていて
というよりも善しか無くて
その善が人によって違った方向に行っているだけ
という考え。
そして、それが善か悪かというのは
他人が基準を持って決めているだけ。
と思っています。
「裏切られた」「騙された」は一種の思考停止
裏切られた、騙されたというのは
表現として使いやすく
相手を悪く言うのに好都合なのですが
これを使うことで確実に
「なぜこういう結果になったのか?」
という事を考えなくなります。
結果として悪い方向に進んだので
ある意味「失敗」なのですが
それを考えるキッカケになったのは
僕が唯一裏切られた事ですね。
裏切りから学んだ事
僕が裏切られたと思った一回は
大学の先輩に僕の親友の彼女がとられた時です。
後にも先にも
本気で人に怒鳴ったのはこの時だけですし
大きなショックもありました。
この大学の先輩は高校時代からの付き合いで
初めて高校でテニスをしてもらった先輩でした。
そこから6年の付き合いで
家に送ってもらったり
部活で面倒を見てもらったりしていたので
無条件で信じていた、信じていたかった。
筋を通してくださいとお願いもしたのですが
結果的に筋を通さず略奪した形で
親友の彼女と付き合うことになり
親友はひどく傷ついたのです。
振り返れば
そういう事はする人だなと分かったし
その兆しもあったにも関わらず
6年の付き合いだし、面倒も見てもらったし
「信じたかった」訳です。
だから、裏切られた様に感じましたが
キチンと視ていれば
そうなる事は予期できました。
結局、
自分が望んだ結果にならなかった憤りを
裏切りという事で相手にぶつけていた
という事でした。
相手を信じる事と相手を視ない事は別だと
この時に反省し
より相手を視る様になりました。
裏切られたというのは一つの失敗です。
失敗に向き合うのは辛いので
失敗と向き合いたくないし
なぜ起こったのも考えたくない。
でも、向きあえば
自分がなぜ騙されたり裏切られたのかが分かり
次は騙されたり裏切られたりをしなくなっていきます。
人を視る時には感情をゼロにする
人は何か視たり考えたりする時
感情も一緒になって見る事が多いようです。
ただ、それは先入観や希望を生むので
分けないと、どうしても考えがぶれてしまいます。
感情と思考は分けられるモノ
なので
僕が人を視る事、その結果について述べることは
感情を徹底的に排除しています。
その為、内容として
冷たいように聞こえるかもしれませんが
嬉しい時は笑うし、悲しい時は泣きます。
心が無いわけではないですよ(笑)
念のため。
裏切られない為にみる話の3つのポイント
ここまで難解な文章を読んで頂きありがとうございました。
本質は文の中にありますが
僕が裏切られたり騙されたりしない為に
話から視る3つのポイントをお伝えしますね。
筋が通っているか
話をしている時にキチンと一貫した筋があるかという事を視ています
筋が通っていないという事はどこかの話を都合よく解釈していたり
情報が他の受け売りだったりするので「不確か」な状態で来ているという事です。
感情論で話をしていないか
感情でモノを言っていないか?
という事は視ています。
可哀想だからとか、大変そうだから
という単語が出てくる場合は注意します。
言葉に力があるか
その人が話している言葉に力があるかどうか
という事は視ています。
言葉に力があるだけで良い訳ではないですが
力が無ければ本人がその言葉を信じていない可能性が高いので
やはり信じられない事になります。
日常的にやっている事もあると思いますが
言葉として意識をする事で効力が増しますので
良かったら頭の隅においておいてください^^